徐興慶先生的學問與實踐─「國際日本研究」的先驅者
伊東 貴之

  在「國際日本研究」聯盟於2019年(令和元年)12月21日(週六)至22日(週日)兩天,於國際日本文化研究中心(日文研)舉行的「環太平洋學術交流會議」上,特別榮幸邀請到台灣中國文化大學校長徐興慶先生進行題為「跨越國界的知識交流─共存與未來的思考」的主題演講。承蒙大會給本人擔任評論員的機會,得以與徐先生有所結識,因此,我僭越地借此機會,介紹徐先生的個人風範、學術背景,以及他的學術活動與研究成果。

  徐先生1956年出生於台灣,1983年自東吳大學東方語文學系畢業後,赴日本九州大學研究所留學,並於1992年取得該校文學博士學位。他的博士論文題目為「近世中日文化交流史的研究─以朱舜水為中心」。此外,他在2012年也獲得日本關西大學文化交涉學的論文博士學位。在研究與教育方面,徐先生曾在東吳大學、中國文化大學、台灣大學等校任教,也曾在日本的天理大學、關西大學以及京都大學人文科學研究所等機構進行訪問研究與教學。他曾任國立台灣大學日本語文學系教授與系主任、日本語文學研究所所長,自任教台灣大學開始,即主持諸多國際學術交流的專案計畫,此外,自2018年起,他擔任中國文化大學院長、校長等要職,在第一線發揮管理大學行政的長才,這些成就早已不言而喻。

  此外,徐先生自2011年(平成23年)10月至2012年(平成24年)9月,以國際日本文化研究中心外國人研究員身份滯留京都一年。同時,作為「東亞日本研究者協議會」的發起人之一,與當時的其他四位發起人──朴喆熙(首爾大學國際研究院院長)、徐一平(北京外國語大學北京日本學研究中心主任)、李康民(漢陽大學日本學國際比較研究所所長)以及小松和彦(國際日本文化研究中心所長)──共同在協議會的設立與運營上貢獻了極大的力量。因此,徐先生與國際日本文化研究中心的淵源也相當深厚。

  徐先生的主要研究專長集中在近世至近代的中日學術、思想與文化的交流史與交涉史,其研究領域還延伸到日本近世儒學、漢文學,以及面臨西方文明東漸的近代東亞知識分子在現代性問題上的思索,涵蓋歷史學、比較思想史等極其多元的領域中,開展了諸多研究,在這些領域中,不僅在台灣、中國、日本等東亞地區,甚至在全球範圍內,都處於該領域的主導地位,並且取得了極大的成就。

  徐先生在學問上的特徵,是在東亞規模上展現了極其宏觀的視野與問題設定作為骨幹,同時其研究方法以非常實證、穩健且周到細密的研究而聞名。他透過大量的文獻資料搜尋和探討、重要文獻的發現以及實地的田野調查等,展現出歷史學家的實證態度與方法論,這種兼具大格局與嚴謹實證的學問風格,實在值得大書特書。這樣的學問性格,毫無疑問是徐先生本人對學術研究踏實的態度與性格,同時也得益於他出身於台灣,具有地緣政治的優勢地區。此外,他留學的九州曾是日中兩國文化交流的樞紐,這也對他的學術風格形成產生了重要影響。徐先生的研究成果同時以中文與日文發表,在質與量上都達到了驚人的成就,這一點也得到了廣泛的共識。

  在徐先生的學術研究成果中,圍繞中日學術、思想與文化的交流史及交涉史的領域,特別是對於朱舜水(1600-1682)的深入研究,展現了他非凡的投入與專注。值得一提的是,他對朱舜水著作的書誌學及文獻實證的基礎研究,為該領域做出了巨大的貢獻,在此基礎上,他對朱舜水的事蹟與思想進行的扎實研究,成為學術史上不可或缺的珍貴資源。江戶初期儒學者柳川藩儒安東省菴(1622-1701)曾於長崎拜訪朱舜水,並師從於他,兩人之間有大量的書信往來,這些書信及相關的筆記、筆談資料於1980年代公開,徐先生以此為基礎,進行了廣泛的史料調查,為朱舜水研究開闢了新的一頁。其中的具體成果之一,是他編校的《朱舜水集補遺》(台灣·學生書局,1992年)以及《新訂朱舜水集補遺》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究資料叢書,2004年),這些著作校勘了許多《朱舜水全集》未收錄的史料,並對其進行了編纂。此外,徐先生也組織研究團隊,在水戶德川家所藏漢籍的整理工作中,對朱舜水、德川光圀等相關的水戶彰考館典藏的文獻整理,作出了極大的貢獻。

  徐先生不但專注於朱舜水的研究,還從國際視野,分析在明清交替時期東渡日本的儒學者、僧侶及文人的文化與思想交流進行了廣泛的論述。其中涵蓋隱元隆琦(1592-1673)與獨立(性易)禪師(1596-1672)等明朝遺民身份的僧人,他們的事蹟與思想同樣是徐先生研究的重點,這些成果匯集在他的宏大著作《朱舜水與東亞文化傳播的世界》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究叢書,2008年),此書系統化地展現了他的研究成果。

  再回顧徐先生對日本近世儒學與漢文學的研究成果,他先後編纂了《德川時代日本儒學史論集》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究叢書,2004年)、《江戶時代日本漢學研究諸面向:思想文化篇》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究叢書,2009年)等著作。近年來,徐先生的研究領域更進一步擴展至東亞的文化交流與知識分子的現代性問題等更具原理性的探討。共編著作方面,有《東亞文化交流:空間·疆界·遷移》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究叢書,2008年)、《東亞知識人對近代性的思考》(國立台灣大學出版中心·東亞文明研究叢書,2009年)等學術作品,這些研究成果陸續公刊問世。

  徐先生的日文著作也非常豐碩,在博士論文之後,深入探討近代以來諸多中日文人之間的思想交流,出版了重要著作《近代中日思想交流史の研究》(京都:朋友書店,2004年),進而將研究視角轉向東亞的近代,特別關注文明轉型期中,中國、台灣與日本的知識份子在面對思想上的苦悶與探索時的轉變與努力。他以更具哲學性與原理性的問題意識為基礎,出版了引人關注的著作《東アジアの覚醒―近代日中知識人の自他認識》(東京:研文出版,2014年)。

  在此,針對世界學術潮流、「國際日本研究」聯盟的活動,以及此次「環太平洋學術交流會議」的相關性,我試圖對徐先生的學術活動與實踐的意義進行個人的總結。在「環太平洋學術交流會議」的首日運營會議中,各國與會學者關注的焦點在當前世界的歷史學與亞洲研究等領域以及跨界交流、移民等主題,某種意義上,這已成為一種研究的潮流。而徐先生早在數十年前就已精確地預見了這一學術趨勢,令人深感敬佩。徐先生的研究不僅於個體的文化交流,他對學術、思想和文化交涉與文化融合等主題研究,提供了一個足以超越傳統單一國家視角的全新框架,這正是近年來特別受到關注的研究領域。在「國際日本研究」聯盟以及國際日本文化研究中心,我們也致力於將國際化與「他者視角」融入日本研究之中。在這方面,徐先生的思惟無疑是我們必須學習的重要先驅者。

  此外,徐先生具體的學術活動與實踐之一,是他在「環太平洋學術交流會議」上的主題演講「跨境的知識交流─共存與未來的思考」,該演講展示了他寬廣的學術視野。徐先生不僅致力於台灣大學日本語文學系及日本研究中心的創設與運營,亦在執行人文社會高等研究院的「日本與韓國研究平台」方面發揮了重要作用。現在,他作為中國文化大學的校長,推動國際日本研究及國際台灣研究做出了重大貢獻。在行政管理方面,他展現了卓越的領導才能,並且他的實踐和活動也為「國際日本研究」聯盟及日本文化研究中心的未來方向提供了寶貴的模式。「環太平洋學術交流會議」結束後,他擔任本研究中心(日文研)「國際日本研究」聯盟的外部評估委員會主席,提供了許多寶貴的見解,對此本人深表謝意。

  徐先生在主題演講中,特別強調了以下三個要點:第一:人文學科與社會科學之間的對話與融合,這一主題與「國際日本研究」聯盟在2018年舉辦的工作坊(「人文科學與社會科學的對話─從國際日本研究的角度」)相互呼應。徐先生將台灣各大學的研究生與年輕學者聚集起來,開展多元領域的國際學術研習營,這一舉措成為國際學術交流的典範,為我們明示了未來發展的方向。第二:強調東亞研究的框架中,必須涵蓋越南研究的重要性。從歷史的角度而言,越南屬於儒教文化圈,因此在東亞框架下進行研究具有重大的意義,透過回顧過去的交流史,我們可以看到,將越南納入東亞研究範疇,對於深入理解東亞與越南的關係至關重要。第三:徐先生在演講結語時提及:從「區域研究」向「廣域研究」的發展,具有前瞻的重要意義,值得特別一提。

  此次,「環太平洋」主題的構思,主要來自本研究中心的坪井秀人教授(「國際日本研究」聯盟主席)和牛村圭教授(環太平洋學術交流會議實行委員會主席)。在聆聽徐先生的演講後,我們更加認識到「以東亞為視野」的重要性。同時,我們也考慮到,如「東亞日本研究者協議會」的組織,有可能在未來超越這樣的框架,擴展到更廣泛的區域研究,如環太平洋、亞太地區、印度洋或北美等,這個發展方向是可以預見的。

✽出處:

《從環太平洋視角思考「日本研究」》(國際日本文化研究中心,2021), 第95-100頁。

徐興慶先生の学問と実践 ─ 「国際日本研究」コンソーシアムに先駆けた人
伊東 貴之

 「国際日本研究」コンソーシアムでは、2019年(令和元)12月21日(土)~22日(日)の2日間にわたって、国際日本文化研究センター(日文研)を会場として「環太平洋学術交流会議」を開催した。その冒頭、台湾の中国文化大学学長の徐興慶先生に特にお願いして、「越境する知的交流─共存と未来を考える」と題する基調講演を拝聴する機会を忝くした。その折にコメンテーターを仰せ付かった御縁から、甚だ僭越ながら、徐興慶先生の人となりや学問、これまでの学術上の御活動や実践について、この場を藉りて、少しく御紹介を試みたい。

 徐興慶先生は、1956年、台湾の生まれ、1983年、東呉大学東方語文学系を卒業された後、日本の九州大学大学院に留学され、1992年には、文学博士(九州大学)の学位を取得された。ちなみに、博士論文の題目は「近世中日文化交流史の研究─朱舜水を中心に」である。その後、さらに2012年には、関西大学より、文化交渉学の論文博士の学位も取得されている。徐興慶先生の研究・教育上の経歴としては、東呉大学、中国文化大学などで教鞭を執られたほか、日本の天理大学や関西大学、京都大学人文科学研究所などでの滞在や研究・教育を経て、長らく国立台湾大学日本語文学系教授・主任や日本語文学研究所長の任にあり、さらに2018年より、中国文化大学学長の大任を担われるなど、教学面や大学行政でも、第一線で活躍されるとともに、研究や学術的な国際交流などの点では、台湾大学時代から、つとに多くのプロジェクトを主宰し、領導されていることは、もはや贅言するまでもないところである。

 また、2011年(平成23)10月~2012年(平成24)9月までの1年間、日文研の外国人研究員として滞在されたほか、東アジア日本研究者協議会の発起人としても、朴喆熙(ソウル大学校国際大学院院長)、徐一平(北京外国語大学北京日本学研究センター長)、李康民(漢陽大学校日本学国際比較研究所長)、小松和彦(国際日本文化研究センター所長)の諸先生(職名はそれぞれ当時)とともに、以上、5名の発起人のお一人として、その設立や運営に際して、多大な尽力をされるなど、かねてより日文研との御縁にも極めて深いものがある。

 さて、徐興慶先生の御専門の中心は、近世から近代に至る時期の日中の学術・思想・文化の交流史・交渉史であるが、さらには、そこから派生し、敷衍するかたちで、日本の近世儒学や漢文学、西洋文明と邂逅した近代東アジアの知識人におけるモダニティの問題など、広く歴史学や比較思想史などの極めて多岐にわたる領域で、数多くの御研究を展開されて、各々の分野において、台湾や中国、日本などの東アジア地域は申すに及ばず、世界的に見ても、当該の斯界を主導する立場で、大いに活躍されている。

 徐興慶先生の学問上の特徴としては、文字どおり東アジア規模において、極めてスケールの大きい広闊な視座や問題設定を骨格としながら、同時にその基調や背景としては、極めて実証的で手堅く、周到綿密な御研究で知られ、夥しい文献史料の博捜や渉猟、重要文献の発見、実地でのフィールドワークなど、歴史家の身上とも言うべき、飽くまでも篤実な実証に裏打ちされた姿勢や方法論との両立は、大いに特筆に値するものである。こうした学問の性格は、第一義的には、徐興慶先生御自身の学問的な態度や堅実なお人柄の賜物であることは言を俟たないが、同時に、台湾の御出身という、いわば地政学的な利点を活かされるとともに、留学先の九州の地が、曾ては日中文化交流の拠点でもあったことなども、徐先生の学風の形成に与って、大いに寄与しているものと思われる。また、その研究の成果は、中国語と日本語の双方で公表され、質量ともに瞠目すべき達成であることも、衆目の一致するところであろう。

 日中の学術・思想・文化の交流史・交渉史という、徐興慶先生の研究上の大きな果実の中で、学位論文以来、具体的な対象としては、特に朱舜水(1600-1682)への傾倒や沈潜には、並々ならぬものがある。とりわけ、斯界に多大な貢献を果たしたものとして、朱舜水の著述に関する書誌学的かつ文献実証的な基礎研究があるが、それを踏まえた彼の事績や思想に関する着実な研究ともども、学術史上、逸することができない極めて貴重なものである。また、江戸前期の儒学者で、柳川藩儒でもあった安東省菴(1622-1701)は、長崎に朱舜水を訪ねて師事し、両者の間で多くの書簡が交わされたが、これらの書簡や筆記・筆談などを含む安東家史料が、1980年代に公開された後、それを中心として、広く日本全国の関連史料を悉皆調査して、朱舜水研究に新生面を拓いたことも、記憶に新しい。その具体的な成果としては、『朱舜水集補遺』(台湾・学生書局、1992年)、『新訂朱舜水集補遺』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究資料叢書、2004年)などにおける校勘や未収史料の発掘・編纂などとして結実している。その他、朱舜水に所縁の水戸の彰考館をはじめ、水戸徳川家所蔵の漢籍の整理などでも、多大な貢献を果たしている。

 さらには、朱舜水を基軸としながらも、国際的な朱舜水研究を踏まえつつ、儒学者のみならず、隠元隆琦(1592-1673)や独立(性易)禅師(1596-1672)などといった、同じく明清交替の時期に、いわば明の遺臣のようなかたちで日本に渡ってきた僧侶(禅僧)や文人の事績や思想なども、網羅的に分析・検証した成果として、改めて浩瀚な大著『朱舜水與東亜文化伝播的世界』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究叢書、2008年)が上梓されている。

 翻って、日本の近世儒学や漢文学に関しても、いずれも共編著ではあるが、つとに『徳川時代日本儒学史論集』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究叢書、2004年)、『江戸時代日本漢学研究諸面向:思想文化篇』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究叢書、2009年)などに纏められているほか、最近では、東アジアの文化交流をめぐる、より原理的な考察や近代の知識人におけるモダニティの問題などへと関心が拡がり、同じく共編著としては、『東亜文化交流:空間・疆界・遷移』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究叢書、2008年)、さらに単著としても、『東亜知識人對近代性的思考』(国立台湾大学出版中心・東亜文明研究叢書、2009年)など、多くの成果が陸続として公刊されている。

 また、日本語での著作としては、いずれも浩瀚なものであるが、まずデビュー作としては、時代的には、博士論文を継ぐものとして、近代以降の夥しい人士の思想的な交流を取り上げた大著『近代中日思想交流史の研究』(朋友書店、2004年)が刊行され、次いで、さらに近年では、東アジアの近代に目を転じて、まさに文明の転型期における、中国や台湾、日本の知識人の苦渋に満ちた思想的営為、模索や転身などに内在的に寄り添い、より哲学的・原理的な問題をも考究した注目すべき問題作として、『近代日中知識人における自他認識─思想交流史からのアプローチ』(研文出版、2014年)を上梓されている。

 さて、ここで翻って、世界的な学問的潮流や「国際日本研究」コンソーシアムの活動、今般の「環太平洋学術交流会議」などとの関連で、徐興慶先生の学問上の活動や実践の意義について、重ね重ね僭越ながら、少しく総括してみたい。

 環太平洋学術交流会議の初日の運営会議などでも、話題に上ったところでもあり、また周知の如く、現在、世界的にも歴史学やアジア研究などの分野において、越境や交流、あるいは、移民などによる人の移動というテーマが、とみに焦点化されて、ある意味では一種のトレンドとも言うべき潮流になっている訳であるが、徐興慶先生は、つとに数十年も前に、こうした研究の動向を精確に先取りしておられたことに、今さらながら、改めて思い当たる。さらには、人を介した個別の文化交流のみならず、文字どおり学術や思想・文化上の文化交渉や文化複合などの研究領域は、まさに一国史観的な枠組みを超克し得る視点として、近年、とりわけ、注目の集まっている分野でもある。「国際日本研究」コンソーシアムはもとより、私ども日文研においても、「国際日本学」や「国際日本研究」を標榜して、海外や「他者」からの視点を組み込んだ日本研究を目指しているが、そうした立場や視点、取り組みの先駆者としても、徐興慶先生の学問から、私どもが学ぶべき点には、多大なものがある。

 具体的な活動や実践としても、環太平洋学術交流会議での基調講演「越境する知的交流─共存と未来を考える」においても、縷々述べられた如く、徐興慶先生は、前任校である台湾大学の日本語文学系や日本研究中心、同・人文社会高等研究院「日本・韓国研究平台(プラットフォーム)」などの創設や運営、さらに今度は、中国文化大学学長として、国際日本研究や国際台湾研究という分野の推進に大変な尽力をされており、そうした学術行政的な側面にあっても、非常に卓越した手腕を発揮されている。今般の基調講演からも、「国際日本研究」コンソーシアム、あるいは、日文研の活動自体の在り方の数歩先を行くようなモデルについて、徐興慶先生から多々御示教を忝くし、御教導に与ったような仕儀である。実際に、環太平洋学術交流会議の終了後には、「国際日本研究」コンソーシアムの外部評価委員会においても、委員長役をお務めいただいて、多々貴重な御高見や示唆を忝くした。この点、深甚の感謝とともに、特記しておきたい。

 なお、基調講演「越境する知的交流─共存と未来を考える」の中で、より具体的に幾つかの論点について、整理させていただきながら、若干の卑見を申し述べたい。

 まず、第一点として、人文学と社会科学との対話や融合といった観点が挙げられる。この点、実は「国際日本研究」コンソーシアムにおいても、同様のタイトルで、先年、ワークショップを開催したところでもあり(「人文科学と社会科学の対話─国際日本研究の立場から」、2018年7 月)、今日的な課題に対する応答としても、大いに共感を覚えた次第である。また、徐興慶先生が、台湾の様々な大学の院生や若手研究者の方々を糾合して、セミナーを開催され、さらにそれを国際的にも展開された経緯についても、勿論、「国際日本研究」コンソーシアムや日文研の活動においても、現在でもある程度、達成しつつあるとは言え、今後、さらに目指すべき方向性を示されたものと受け止めている。

 次いで、東アジア研究という枠組みの中に、ベトナム研究も含まれるという御指摘に関して、改めて注意を喚起させていただきたい。この点は、専門家にとっては、歴史的に見れば、むしろ自明のことかとも思われるが、例えば、ごく普通の一般の日本人の場合なら、ベトナムがいわゆる中国文化圏や儒教文化圏に属するという知識や意識は余りないものと思われるし、甚だ失礼ながら、ベトナムの方であっても、専門家でない普通の国民、一般市民の方の場合には、少なくとも現在では、ASEAN の中の一国という、東南アジアの国々の一員であるという意識や自己規定が強くて、東アジアのグループや仲間という意識は、むしろ薄いものと見受けられる。しかるに、過去の歴史なり、交流史を辿ってみるなら、ベトナムの場合も、やはり東アジアという枠組みで考えることが非常に重要であると思われる訳である。

 最後に第三の視点として、徐興慶先生が末尾近くでお示しになられた、いわば「地域研究」から「広域研究」へという方向性についても、敢えて特記しておきたい。前述したとおり、ベトナムなども含めて、東アジアという枠組みで、研究を遂行し、深めることにも、無論、大きな意義が存することは、もはや贅言を俟たない。ちなみに、些か手前味噌になるが、今回、「環太平洋」という題目を案出したのは、主に日文研の坪井秀人教授(「国際日本研究」コンソーシアム委員長)や牛村圭教授(環太平洋学術交流会議・実行委員長)(職名は当時)の発案に係るものであるが、徐興慶先生の御講話に接して、東アジアという観点の重要性も勿論、踏まえたうえでなお、場合によっては、東アジア日本研究者協議会のような組織が、さらにそうした枠組みや境界を越境して、今後、たとえば、環太平洋とかアジア太平洋、インド洋や北米など、さらに広い地域に拡大していくような方向性さえも、あり得るのではないか、などとも考えさせられた次第である。

✽出典:

『環太平洋から「日本研究」を考える』(国際日本文化研究センター、2021)P95-100。