山室信一
序論 アポリアを問い返す力
アポリアとは何か
本論集は、台湾・中国・韓国・日本に研究拠点をもつ12名の筆者が、東アジアにおいて自らが最も切実で重要な課題として認識するテーマについて分析した論考を集め、これを『近代東アジアのアポリア』と題して公刊するものである。
そこには、ある一国内の研究者だけでは捉えきれない問題や、およそ自国内での研究ではテーマとして想定されることさえない問題が提示されているという点において、震えるような「驚きの発見」を体験できる構成となっている。この事実は、偏に編者である徐興慶教授自らの問題意識のアンテナが東アジア全域に及び、そして同時に台湾大学が「知の集約拠点」として有効に機能していることを物語るものに他ならない。その意味で、本書の刊行にあたっては、何よりも先ず台湾・中国・韓国・日本に研究拠点をもつ12名の研究者を様々な機会に結集して戴いた徐興慶教授と台湾大学のスタッフの皆さまに御礼を申し上げ、今後の更なる御清栄を祈念したい。
さて、表題として掲げられたアポリア(aporia)は、ギリシア語で「道のないこと」「行き詰まり」「困惑」などを意味する。そして、アリストテレスの哲学においては、ある問題について論理的に同じように成り立つ相対立する見解に直面することを指して用いられたものである。そして、現在、日本では一般に、問題が解決困難な困惑した状態、あるいは解決の糸口を見いだすことのできない難問そのものという意味で使われている。日常的な用語で書けば、「途方に暮れた状態、難題」ということになろう。
今、ここでアポリアそのものの語義についての歴史的展開についての議論を進める紙幅の余裕はないが、本論集への導入という局面に限って言えば、その意義については次の二つの事例を挙げておく必要があるように思われる。
まず第1に確認しておくべきことは、なぜ、アポリアを問題にする必要があるのか、という、その「問いかけの根拠」に関する意義である。これに関し、ソクラテスは相手に善や真理や徳などの概念について質問し、その答えに更に反問することを重ねることによって対話者にその答えが不十分であることを自覚させ、それによって対話者は最終的に困惑=アポリアの状態に陥り、自らの考えを撤回し、そのことについて何も知らないことを認めるに至る、という対話法を哲学的思索の方法として用いたとされている。もちろん、それは相手の意見を撤回させ、自らの無知を自覚させることが最終的な目的として設定されているわけではない。ましてや、相手をアポリアの状態に追いこみ、その無知を嘲るための方法などでは決してない。むしろ、何かについて既にそのことは知っていると先験的(アプリオリ)に思い込んでいる人に、本当は知らないということを自ら悟らせ、さらにそれを新たなる課題として研究しなければならないという探究心を燃え立たせることに目的は据えられている。アポリアを摘示するということは、何よりも対話を通じてお互いが、その未解決の課題について知りたいという熱情を湧き起こすことにある、と言えるのである。
そして、ここで留意しておくべきことは、そもそもアポリアという状態を見いだすためには、対話が不可欠の要因となっているということであり、その意味で本論集は台湾・中国・韓国・日本に研究拠点をもつ12名の筆者に対話の場を提供し、さらにその対話空間が読者にも広く開かれている点で重要な存在意義をもっているはずである。そこで読者は、こう問われるであろう、「あなたが近代東アジアについて知っていると思い込んでいることは果たして真実なのでしょうか?また、それをどうして真実と思われるのでしょうか?」と。それは他でもなく、最初の読者の一人として「序論」を書くために本書を通読した私自身の感懐に他ならない。
次に第2の確認しておくべき事柄は、それではそもそも、そのアポリアを見いだすための最初の糸口はどのようにして提示されるのであろうか、という問題である。
これに関して、現在の東アジアに即して言えば、そこには領土問題や歴史認識問題など双方に自らの議論に正当性根拠があるとして主張され、しかし、それ故に相反する議論が等しく成立しているように見える状態すなわちアポリアが眼前に立ち現れ、まさに解決に行きづまった状態にあることが指摘される。そうした問題群は、本論集において1つの主要な領域を成しており、その解決方法についても傾聴すべき有益な示唆が多く提示されている。それが喫緊の重要性をもっていることの意義は、改めてここで特記する必要もないはずである。本論集における東郷和彦・李鍾元・木村幹氏の論考は、こうした一触即発の危険性ゆえに解決を迫られているアクチャアリティをもった問題に関して、外交史と外国研究のあり方におけるアポリアを問い返すという視点から果敢に、かつ精密な考察を重ねることによって解決への道筋を示そうという試みである。
他方、この論集のもう一つの主要な領域を成し、そして台湾・中国・韓国・日本の研究者がそれぞれの独自の視点から提示している特質として挙げうることは、何が探求すべき課題であるのか、というその課題としてのアポリアの析出そのものについての問い返しが行われている点である。アリストテレスは自らの哲学的思索を始めるに当たって「我々が探求している科学の目的においては、何よりも最初に論じなければならない問題を初めに述べることが必要である」(『形而上学』)として、先人たちの頭を悩ませた様々なアポリアの中から最も重要なアポリアを提示することを手始めに自らの探求を進めていった。アリストテレスはアポリアを「相反する推論の相等性」と定義し、両立困難と思われる二つの結論を導くような互いに同等な効力が存在する時、人はアポリア状態にあり、アポリアの提示こそがあらゆる研究の端緒となりうるとしたのである。問いの在処(ありか)を問いかけ、指し示すことからしか、議論は始まらないのである。そうしたアリストテレスの教示に従うとき、私たちにとって現実に直面している領土や歴史認識などのような問題を探求していくための「何よりも最初に論じなければならない問題」とは何であることになるのであろうか?
恐らく、それは「『近代』とは何か」、あるいは「『東アジア』とは何か」、さらには「『東アジアにとっての近代』とは何か」、そして、今なお、それは「何であり続けているのか」という問いかけにならざるをえないはずである。こうした「アポリアそのものの問い返し」という志向性をもった論考として、本論集には劉建輝・馬場公彦・劉岳兵・稲賀繁美・宋錫源・東郷和彦・李鍾元・金錫根・木村幹・徐興慶・緒形康氏の資料の博捜と該博な学識の裏付けられた重厚かつヴィヴィッドな論考が収められており、拙稿もまたそうした研究視角に連なるものである。そこには如何なる形式や内容に依るにせよ、私たちが問題そのものの根源を問い返すためのヒントが、賢明なる読者のために提供されている。