朱茂男
四百年前的南明大儒朱舜水,其懷抱經世之學,乘舟航海而寄居異鄉。相較同一時代傳統典型的中國儒家王陽明、黃梨洲等人,朱舜水不平凡的一生,以其身體的實踐,超越國籍的藩籬,勾勒出東亞儒學的概念。從這樣的角度看來,朱舜水並不傳統,反而十分具有現代性,符合當代創新的思想價值。
世界朱氏聯合會長期以來促進全世界朱氏宗親之間的親睦團結、貢獻國際親善及世界和平,承繼發楊以朱子為代表的東方優秀傳統文化、修復朱子遺跡為宗旨。隨著全球化的發展,「東亞儒學」成為海內外學術界關注的焦點,世界朱氏宗親會因緣際會,也在未曾預期的情況下,匯入了這股舜水學的研究熱。朱舜水在我歷代朱氏先祖中,居有特殊的地位。眾所周知,千年來,中國本土成長而能跨國交流具有國際意義的學問,除朱子的理學及王陽明的良知學外,朱舜水的經世之學當是第三支。朱舜水思想的意義不僅是朱氏一族的,它也是全體東亞的,更是全球華人的。晚近研究舜水學的中日學者如吾妻重二、錢明、徐興慶諸教授都撰文指出舜水學的東亞性格,可見舜水學確實具有跨文化交流的能量。
2010年適逢朱熹誕辰880週年暨朱舜水誕生410週年紀念,世界朱氏聯合會於海內外舉辦一系列紀念活動。為促進對舜水學的認識,臺灣大學日文系暨研究所、臺灣大學人文社會高等學院、臺灣朱子學研究協會、臺灣朱氏宗親文教基金會、世界朱氏聯合會結合海峽兩岸的大陸、臺灣學界以及東海兩岸的中、日學界,聯合舉辦「朱舜水與東亞文明發展國際學術研討會」,值得注意的是,日本水戶彰考館德川真木館長專程前來參與盛會,提供了豐富寶貴的朱舜水文物資料,並建構出文化交流的平臺,引發學界關注與迴響。《朱舜水與近世日本儒學的發展》專書的出版,即是此次研討會議的寶貴成果,收錄來自包含中國大陸、台灣、美國、日本等東以各國學者發表的論文著作。
華、日兩族文化交流因舜水學而再續偉績,2011年3月11日,日本東北發生大震災,引發海嘯,舉世震驚。德川博物館部分建築毀損,德川真木館長專程訪台募款。透過楊儒賓教授與徐興慶教授的熱心奔走,在世界朱氏聯合會與臺灣朱氏宗親文教基金會的號召之下,募得一些款項,充分表達出朱氏宗親對於德川家族三百多年前禮遇尊崇先祖朱舜水的情義回饋。
早在四個世紀以前,我們了不起的先祖朱舜水已做了極好的示範,它波瀾萬丈的一生經歷顯示出:在本土與國際、傳統與創新、學術與政治之間,是可以找到相互支撐的平衡點的。感謝徐興慶教授用心力促本書的出版,帶領我們深入了解舜水學及東亞儒學的領域,不僅傳承先祖理念,更增進國際文化的學術交流,意義深遠。
2012年3月謹識 - 德川 真木
2011年11月3日、中国、余姚市から朱舜水の族孫の人々と市の代表の方々が来日して、茨城県常陸太田市内にある国指定史跡.水戶徳川家墓所内の朱舜水の墓に参拝者の列は100人を超えた。故郷を離れ、350年も昔に亡くなった一人の儒学者のことは日本でも中国でも台湾でも全ての人が知っていることではない。彼は王のような権力者ではなく、明末の儒学者である。今なぜ、多くの人が彼と彼の学問に関心を持つのか考えてみると、歴史の中で彼の果たした役割を改めて学んでみたいと強く思った。
そして私がこの墓参のための来日で、朱家の人々と過した時間のなかで、徳川家と朱家の子孫には習慣や先祖の教えを守る気持ちに多くの共通するものを感じ、朱舜水と徳川光圀のかかわりも深さを改めて感じた。
約400年前の日本では徳川家康によって天下一統がなされ、武家による政治体制.幕藩体制が確立され、江戸幕府によるこの政治体制はその後260年以上続く平和な時代を築いた。この時代はいわゆる封建社会ではあったが、庶民に至るまで商業、教育、文化が一気に広まり発展した時代と言われている。家康の末の息子、頼房が常陸水戸(現在の茨城県)を領地として拝領し、分家した水戸徳川家は諸大名の中でも御三家という別格の家格をもち、常に江戸に居住し、本家である将軍を輔佐した。その2代目の徳川光圀が長崎から朱舜水を学問の師として江戸に招いた。私はこの出会いによって日本人の中に深く儒教的思考が広まることとなったと思っている。
徳川光圀は徳川家康の孫にあたり、三男でありながら七歳でその資質を認められ、兄を差し置いて家督を受け継ぐこととなった。若き目の光圀は血気に溢れた青年で派手な身なりで街を歩き回り、乱暴な振る舞いもしばしばであったという。しかし、その考えを変えさせたのが、司馬遷が著した中国の史書.史記の伯夷叔斉の兄弟の話である。義を重んじ、結果、国を滅ぼした異国の王の息子達の物語に自ら重ね、兄がありながら家督を継ぐことの重みを知り、以来行いを改め、学問にいそしみ、人間のあるべき道を求めるようになった。それはちょうど三代将軍家光の時代、戦を知らない世代が幕閣を占めるようになり、人々が力による政治から文治政治を志す時代となっていた。
1657年30歳の光圀は、全国から著名な学者を集め、史局を開き修史の志をたてた。光圀によって全国から学者や僧、書物や資料が集められ、後に彰考館と名付けられた史局で、戦乱の世に失われた朝廷の故実をまとめ、和歌や宗教についても研究し、大きな成果を上げた。藩主となった光圀は善政を行い、多くの人々から信頼を集め、その存在は将軍や天皇からも認められるほどであった。つまり朱舜水はその学問を天下の副将軍と称された光圀に説くこととなったのである。さらに朱舜水は彰考館で新たに日本の多くの弟子を育て、朱舜水がもたらした明の学問と文化が日本に深く根付くこととなる。
事実、朱舜水が江戸に招かれてから後、彰考館の学者の数がもっとも多くなったといわれ、また幕府が官学として儒教を学ぶことを奨励し、湯島に幕府の孔子廟.湯島聖堂が建てられた。いよいよ日本で学者や僧以外に広く儒教を学ぶ時代となったのである。水戸藩では朱舜水や光圀がなくなった後も史書「大日本史」の編纂は続けられ、1906年完成し明治天皇に献上された。歴史をよく学び、学問を重んじる水戸徳川家に生まれ15代将軍となった徳川慶喜は、江戸幕府を廃し、大政奉還を決断し、国を二分することなくその政治を徳川から天皇家に戻した。それは武士が戦わず、国を譲ったことになるが、日本の近代化に少なくとも大いに役立っていると思う。
東アジアが新たな変革を迎えた今、私は国を超えて多くの研究者が集い、朱舜水の学問と哲学を論じ、今後の社会に活かせる新たな価値を見いだされることを期待している。
彰考館は現在、その史料とともに公益財団法人徳川ミュージアムの研究部門となって存続されている。私はその館長として、人類共通の財産である文化と知識の記憶を失うことなく保存するとともに、時代の変遷の中で時代に即した新しい価値観を生むために活かされていくことを願っている。そして今後、ここに集う研究者たちによって朱舜水の知的遺産が新たな可能性となって未来に受け継がれるために私も微力ながら力を尽くしたいと考えている。
水戸徳川家15代当主夫人
公益財団法人 徳川ミュージアム
館長 徳川真木